5月2日
祈りとは自分の無力さを受け入れることである。
神仏をまったく信じない人をみていると傲慢だと感じるのはきっとそのせいだろう。
自分の力でなんとかできると思っている人は努力もしているのだろうけど、
運が味方をしない、というか孤独なイメージがある。
私は毎日祈りをしているわけではないので、偉そうなことは言えないが、自分が怒りや不満を感じた時には自分の本心は何かを考えるようにしている。
結論はいつも、そのせいで寂しい思いをした、ということがほとんどだ。
立ち合い出産の時、夫にすぐに来てといったのに、香水をつけてやってきた。
私は病院にくるのに香水なんてつけて非常識だ、と数日間ムカムカしていたけれど、本音は1分でも早く来て欲しかったのに、香水なんてつけてのんびり準備していたように感じて寂しかったのだと思う。ご霊前を薄墨で書く、という習わしにあるように、とにかく駆けつけました。という気持ちが欲しかった。それを常識的に考えて、とか、理屈や一般論に落とし込もうとするからすれ違いが生じるのだ。
夫にもそのことを告げたら、こういう時こそいつものルーティンをして、焦らずにいこうと思ったと。私は1分でも早く来て欲しかったといったら、そういうことならわかったと。二人ともきっと納得したと思う。それにちゃんと出産には間に合って立ち会うこともできた。
奇跡の瞬間なんだから、みんなが納得できる形が良い。すべてが予想通りにうまくいくことなんてないけれど、自分の正直な気持ちを話してわかってもらえることが納得や幸せのわかちあいになるのだと思う。
最近の祈りといえば無事に生まれてきますようにばっかりだった。自分の無力さってこういう時に実感するものだ。