nirenohi’s blog

アラノンで今日一日を続けます

12月27日

夫婦での意見の相違も同じことだと思う。共同の善は家族の善とも言える。

元旦は例年夫の親戚の家に行っていたが、今年は先方の体調不良で見送りになったので、私は私の親戚の新年会に行こうと思っていた。その新年会はみんなで集まってお酒を飲む新年会だ。

私はこどもが生まれたのでお披露目も兼ねていきたいと思っていたので、夫とお正月の話になったとき、新年会に行きたいと言ったら、夫が「行くと飲め飲めになっちゃうから俺はやめようかな」と言った。私もやめようかと考えていると、「俺の寝ている間に行くんだよね」と言っていた。だから私は「顔だけ出して、お年玉配ってもらったら帰ってくるよ」と言った。その後その話はしていない。お互いに意識的にしていない。

このやりとりで私は夫が本当に宴席を避けたいと思っているのだな、と思って嬉しくなった。それと、私は本当に行くべきか、と不安になった。それは夫が気分を害するのではないかという不安と、それをきっかけに飲んでしまったらどうしようという不安だ。

その不安は私の妄想だ。夫は飲みたくないから行きたくないと言っているし、私はタチの悪い酒飲みもいるので、連れていきたいとも思っていない。

共同の善は何だろう。個人の善は夫にしてみればまずは参加しないこと、私にしてみれば、こどものお披露目はしたいので顔だけはだしたい。だったら、個人の善を優先することで共同の善になるのではないか、とも思う。

お互いが認めあって、不満をもたないことが優先だ。今日あえて二人ともこの話題に触れなかったのは、なにが最善かゆっくり考えてから話すつもりだからだろう。

思いついたことをすぐ口にだす前によく考える。これが共同の善を考える前提で、それができるようになることがさらに大前提なのだろう。